多くの人から称賛を得た
色鮮やかな素麺
寛永12年(1635)、伊勢桑名藩から松山藩へ移封となった松山初代藩主・松平定行には多くの商工業者が随行してきた。「五色そうめん」は、彼らがつくった愛媛の名産品である。
享保7年(1722)、八代目長門屋市左衛門の娘が、家内安全と商売繁昌を願って椿神社に詣でたとき、境内で五色の糸が下駄に絡まった。これを神の啓示と受け取り、五色の素麺づくりをはじめたという。
市左衛門は、緑(青)の麺にはくちなしと高菜を組み合わせ、赤い素麺には紅花、黄色い麺にはくちなし、濃紺(黒)の麺には高菜を使い、白とあわせて美しい五色の素麺を生みだした。
素麺は、奈良時代に唐から伝来した「索餅」で、七夕に食べると病にかからないという中国の故事にならい、宮廷で食べられていたという。
江戸時代の百科事典『和漢三才図会』には「備州(岡山)の三原、奥州(東北)の三春より出るもの、細白にして美なり。予州(愛媛)、阿州(徳島)も亦た劣らず。和州(奈良)三輪、古より名物と雖へども佳ならず。摂州(大阪)大坂最も多く之を造る」とあり、伊予の素麺(五色そうめん)は素麺の上物と褒められている。
八代将軍・徳川吉宗は、松山五代藩主・松平定英から「五色そうめん」の献上を受け、「美麗五色は唐糸の如し」と讃えた。
また、近松門左衛門は、松山市北松前町の酒造業・豊前屋後藤小左衛門から「五色そうめん」が贈られた際の礼状に「五色そうめんは食べるより、まず美しさを楽しんでいる。冬日に映える遊糸のようで、まだ食べていない。朝晩近くにおいて、眺めるばかり。よほどの珍客がこなければ、食べるわけにはいかず、食べる時をずっと待っている」と記している。
文化年間(1804~18)に道後で誕生し、上方で謡われ、幕末には流行唄となった「伊予節」にも「音に名高き五色そうめん」と謡われている。
三百年にも及ぶ歴史を持つ「五色そうめん」は、現在でも梅肉、鶏卵、そば粉、抹茶、山芋などの天然色素を利用している。冬にも「にゅうめん」で、伝統の味を楽しみたい逸品だ。 |